背日記


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自由
04/26 (Sat) 20:25|
鈴木大拙の『東洋の心』を読む。
この人の著書にはキリスト教に対してわりに苛烈な批判があるが
それにもかかわらず自分とのずれがあまりないなー、
うちキリスト教畑で育ってるねんけどなー、
と思いながら読んでいて、自由について書いた箇所を発見した。
ここを学生時代、卒論書く時に読んでいればよかった……。
卒論は「自由について」書いたのですが
そんときはベルクソンとかフロムを引き合いに出した覚えがあります。
あとはカール・ロジャーズです。
しかしベルクソンなんか完全に理解できてないのに引き合いに出してたので
意味なかったです。フロムはおもしろかったけど。
これは講義録で非常にわかりやすいです。
そんで英語の解る東洋人が書いているところがよかったんやと思います。
英語で自由をいうとフリーダムとかリバティになるのですが
これは拘束する外的条件からの解放というような意味合いになるそうです。
しかし日本語ではこれにあたる語はもともとなく
強いて仏教用語から、おのずからの本性を意味する『自由』
という語を使った、ということで、それを知ってやっと、
「そうか!そういうことか」と自分の中での
自由という語に対する微妙なズレ感が修整されたんでした。

西洋でいう「拘束する外的条件からの解放」的なニュアンスの自由いうのは
なんかうちの考えの中の自由というのとは違ってて、
そのへんを説明できないままにいろいろ論じてたので
論がどこへ向っているのやらわからんくなっていたのです。
うちが論じたかったのは東洋的な意味合いの自由やったんです。
しかしその目指してるとこすらわからんくなっていました。
我が卒論完全に失敗してます。

鈴木大拙のいう東洋的な意味合いの自由というのは
「拘束の中でも生きている自由」とでもいうべきものです。
ちょっと言い方違うかな。拘束を拘束と見なさなくなる自由さ、といったほうが
正確かもしれません。
拘束を外された精神状態が自由かというとちょっとちゃうぞ
と書かれています。
逆に自分に縛られるので。
「フリーダム・リバティ」を自由として求める人もいるなかで
「その人の自由とうちの自由の意味するとこはちょっと違うなあ」とは
感じていました。
が、明確にそれを言葉ではいえなかった。
その違いをどんぴしゃでこの本で言ってもらえてすっごいはっきりしました。
同じ言葉でも指しているものが違うことがあり
まして目に見えない観念を意味する言葉やと難しいなと思いました。
言葉を無意識に使ってると誤解のもとにもなる。

そんな発見があったのでこの本を読んでよかったです。
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