背日記


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石鹸玉
03/16 (Tue) 01:40|思考
※むかしのめも。

外に何か探してもなにもない。と最近感じる。
そこに自分を見つけるだけだ。外にも自分、内にも自分。
自分という枠組みの中からしか何も眺めることは出来ない。
自分に閉じ込められているということなのかもしれない。

自我という牢獄。ここからは文字通り死ぬまで脱け出すことができない。
(のだろうか)
自我とは牢獄なのか、それとも一つの窓なのか。
もしくは一枚のごく薄い膜。フィルターを通してしか世界に触れることができない。
じかに触れられないことを妨げられていると感じるが
自分を妨げているのはやはり自分だ。
膜は薄くなったり厚くなったりし、濁ったり透明になったりして
世界の見え方を変えさせる。
色とりどりにくるくる変化し移り変わる様は石鹸玉にそっくりだ。
不変なのは視点が存在することだけ。
この視点は色々なところを飛び移る。母の娘である私の視点、老人の私の視点、
子どもの私の視点、大人の私の視点、妻の私の視点。私はなんにでもなれる。
視点はいろいろ様ざまなところを飛び移り、しかし常に存在している。
視点は膜を通して世界を見る。
石鹸玉が青いとき世界は青く見え、濁っていれば濁って見える。
ほとんど見えない時も、見えすぎるほど見えるときもある。
石鹸玉からだんだん色が失せ、薄くなれば薄くなるほど透明になり、
世界はそのままの姿を現し始め、よく見えるようになる。
そしてついに石鹸玉が世界にじかに触れる時、石鹸玉はぱちんと割れて消える。

そしたら視点はどこへゆくんだろう?

石鹸玉を吹いているのは誰なんだろう?

もしかするとそれは子どもの姿をした神さまで
永遠の退屈に飽いてしゃぼんを吹き
大きいのや小さいの、よく飛ぶものすぐ消えるもの
いろいろの石鹸玉の儚い行く末をただ、眺めているのかもしれない。

ただの想像。
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コメント

発狂したら自我は解放されるのでしょうか。それとも無となるのでしょうか。
2010/03/16(火) 22:42:43 |URL|キノコルゲ #- [編集]
逆に正気に立ち戻れる気がします。実感としては自分の内容が残ったまま皮膚がなくなるというようなことで、これは世界に晒されること、無防備、混沌です。
場合によって解放という「体験」はありますが、これを永続的状態にするのには意識的努力が必要なのではと思います。
2010/03/17(水) 01:02:25 |URL|hakka79 #- [編集]

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